「精神疾患患者は障害者か」──障害者権利条約と〈カテゴリー〉の暴力に抗して
精神疾患患者は、果たして「障害者」として括られるべき存在なのだろうか。これは制度の便宜ではなく、存在論的な問いである。障害者権利条約(CRPD)が謳う包括性や平等は、精神疾患を生きる者にとって本当に「解放」たりうるのか。むしろそれは、別の形の抑圧ではないのか。私は、精神疾患を抱える者が制度上「障害者」とされることの根本的な不正義に抗いたい。
■ 「包括」が生む排除
障害者権利条約は、あらゆる障害をもつ人の人権保障を目的とした国際的な条約である。その中には、精神的または知的障害も明記されている。一見、精神疾患をもつ者も含まれているように見える。しかし実態はどうか。精神疾患という内面的かつ流動的な経験を、「障害」として固定し、「支援」「配慮」「合理的配慮」の対象にしてしまうとき、そこに潜むのは〈病んだ他者〉としてのカテゴリー化である。それは「守る」という名のもとに、精神疾患患者を〈囲い込み〉、社会から分離し、「管理可能な存在」へと転化させる行為にほかならない。
■ 能力のある者を二級市民にする社会
精神疾患を患っていても、創造性、知性、批評力、他者との共感能力を持つ人間は数多く存在する。しかし、「障害者手帳」や「障害者雇用枠」の制度に組み込まれることで、彼ら彼女らは能力よりも「ラベル」で判断される。形式的には平等でも、実質的には「健常者とは違うルールで生きよ」という暗黙の規範に従わされる。社会から見れば、それは「支援」ではなく、「あなたは通常の市民ではない」という宣告である。そのとき、精神疾患患者は〈制度によって作り出された障害者〉となり、自らの存在を生きにくくされる。
■ 「べてるの家」に見る制度化の罠
「当事者主体」を標榜する「べてるの家」もまた、このラベリング構造から自由ではない。自己分析、語りの共同体、施設的共同生活──それらは一見、自律的に見えるが、実際には別の形で「あるべき精神疾患患者像」を内面化させている。「病気を治すな、付き合え」といったスローガンは、「治る可能性」や「個別の生」を排除する暴力になりうる。そこにあるのは、選択肢の多様化ではなく、自己決定を装った集団規範の強制だ。
■ カテゴリーの解体へ
精神疾患患者は、「障害者」ではない。少なくとも、ひとつのカテゴリーに押し込められるべき存在ではない。精神の経験とは、時に社会の矛盾や暴力を映し出す鏡であり、また個人の生の裂け目でもある。それは「配慮」や「合理性」といった制度の言葉では捉えきれない。必要なのは、制度や条約による包括ではなく、〈カテゴリーそのものの解体〉である。人間を、「病者」か「健常者」か、「障害者」か「市民」かに分けるその思考を解体し、新たな共生の言語を探るべき時が来ている。
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