空気のような檻――精神障害と社会モデルの再検討

**はじめに** 社会モデルは、本来「社会的障壁が障害を生む」という視点から、障害者差別の解消と権利の保障を目指してきた。これは身体障害の文脈では特に有効であり、段差やバリアフリーといった構造的問題に対する社会の責任を明確にするものだった。しかしこのモデルがそのまま精神疾患にも適用されるとき、私たちはある種の「不整合」と「沈黙」に直面する。 本稿では、精神疾患における社会モデルの限界と、それがもたらす不可視の抑圧――すなわち「空気のような檻」について論じたい。

 **1. 社会モデルの移植とそのズレ** 精神疾患は、多くの場合、治療や支援を通じて寛解や回復が可能である。たとえば、うつ病や統合失調症、双極性障害といった診断名を持つ人々が、リカバリーを経て看護師や教員などの専門職に復帰する事例は少なくない。 だがそのような回復が実現されても、社会制度や行政文書、さらには国際的な政策文脈の中で、精神疾患経験者はなお「障害者」としてラベリングされ続ける。ここで私たちは問わなければならない。なぜ「治った人」が「障害者」のままなのか? 社会モデルは「環境こそが障害をつくる」とするが、精神疾患においては「病気そのものが不自由をもたらす」時期が明確に存在する。そしてその不自由さは、病状の改善とともに軽減または消失する。つまり、環境によって恒常的に固定されているわけではなく、個人の状態変化と密接に連動している。そこに、身体障害とは異なる構造的非対称が存在する。 

 **2. 回復の否認と「見えない抑圧」** 精神疾患からの回復が可能であるという事実を、社会モデルの論理はしばしば軽視する。本人の努力、医療の進展、支援環境の改善によって実現される回復プロセスは、社会モデルの語彙では「社会が配慮してくれたから普通に働けている」に変換される。 ここには明らかな主体性の剥奪がある。努力も回復も、制度や他者の功績に書き換えられてしまう。このとき、個人は「自らの人生の語り手」である権利を失う。社会的障壁を取り除くための思想が、逆に「個人の回復を認めない構造」として機能し始めるのだ。 これこそが、空気のような檻である。それは可視化されず、暴力性も直ちには感じられない。だが確実に、個人の尊厳と物語を制限する。「あなたは回復しても、障害者として扱われ続けるのだ」という無言の力。それは、制度の中にも、支援者の語りにも、世論の中にも染み込んでいる。

 **3. 回復モデルへの転換と再定義の必要性** 現在、多くの先進国で「リカバリー志向の支援」が語られている。しかしながら、政策や制度の根幹にある「障害者」概念がアップデートされなければ、真の意味での回復モデルへの転換は不可能である。 精神疾患の経験を持ちながらも、「もう不自由はない」と語る人々を、社会はどう認識すべきか。彼らを「例外」として処理するのか、それとも「これこそが本来の回復のかたち」であると再定義するのか。 私たちは、精神疾患に対する障害モデルを「静的」なものから「動的」なものへと見直す必要がある。すなわち、「今は障害があるが、将来的にはそうでなくなる可能性がある」「回復とは一過性ではなく、継続的なプロセスである」とする視点への移行だ。 

 **おわりに** 社会モデルは、確かに時代を進めた理論だった。だがそれが「回復可能な障害」に対して適用されるとき、それは“壁”を壊すどころか、“檻”として働きうる。 その檻は、空気のように見えず、しかし個人の回復と尊厳を確実に封じ込める。 精神疾患を持つ人々の物語は、もっと自由であってよい。その自由を妨げる理論や制度の再検討こそが、今、必要とされている。  

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