やはり患者からの論考は必要だろう
精神疾患患者というか精神障害者(この言葉はあまり使いたくないが)も、医療側や福祉側、家族会や社会もしくは学者の側から語られる事が多く、患者の方からの論考が少ないということは最近書いた。もちろん社会に言論を発することに対する怯えや、そもそも言論に持っていくほどの思考力と国語力のない患者が多い印象が僕にはあるので、そういう不遜な考えを持ちながらも論考をインターネットで発信している。やはり、精神疾患当事者の活動団体に入ってみているが、活動は内向きというか、自分たちの考えをブログやnoteでもいいから発信するような姿勢にはなっていないようだ。インターネットも情報発信のためのツールと考えれば、いろいろとやり方はあり、国会や厚労省に団交するだけで、一般社会への情報発信や意思疎通を端から期待していないような姿勢は僕としてはあまり良くないのではないかと思う。
それは、いつまでも黙っていると意志のない存在とみなされて、ますます人権が侵害される状況になりかねないと考える。自分の論考がどこまでの質を保っているかは不明だが、ある意味言論として発信できる強度を文章に持たせなければ、いつまで経っても二級市民的な扱いを受け続けるだけだと思う。そういう点で精神疾患の患者に障害者という語彙を当てるのは精神衛生法(昭和25年)当時の法概念のままで、まだ薬物療法も心理療法も脳科学もへったくれもなく、ただ患者を隔離する方向性の考えにより障害者という概念を当てはめたふしがある。しかし、現在の障害者権利条約にも精神障害者というふうにカテゴライズされているが、寛解して普通に社会復帰する患者がいることを考慮すると障害者という概念が逆に足枷になっているようにも感じられる。
福祉がどうあるべきかについては再考する必要はあると思うが、患者の実体験による声や声だけでない論考というか言論が発せられない限り、一般社会へ通用する言説とみなされないと思う。ひとまずこのWebサイトで精神保健福祉や患者の人権向上に関する記事を書き続けてみたいが、社会の変化の兆しも少しずつ見えてきている気がする。そこで一患者の視点から言論活動を行っていければ幸いに思う。
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